人の言葉を理解し、喋る、とても珍しいライオン・ジェレミアが、ランペルージ家にやってきて早数か月。
もうすっかり家族の一員、ルルーシュにとってもナナリーにとっても、無くてはならない存在となっていた。
 毎日好きなだけオレンジを食べて暮らしているジェレミア。
ルルーシュがとある技術者を手配してくれたおかげで、ジェレミアの左半身に付けられていた赤紫色の機械は全て取り外され、左目の人工的な色を誤魔化すための特殊なカラーコンタクトレンズも作ってもらえた。さすがに体内に埋め込まれた機械は取り除けなかったものの、外見上は本来あるべき姿を取り戻したと言えるだろう。
文法をうまく組み立てられずまともに喋れなかった言葉も、毎日リハビリを重ねてだいぶ克服し、こちらも本来の状態に戻りつつある。 …喋るライオンが本来の状態なのかは疑うところなのだが。
とにかく、優しい家族に美味しい食事、少しだが元に戻った体…と、今のジェレミアは幸せそのものであった。
 しかし、食べている物の所為なのかそれとも鬣の色のように普通のライオンとは何かが違うのか、ジェレミアが大きくなることはなかった。
ぬいぐるみのような小さくて可愛い姿のまま、声も思考も何一つ変わっていない。昔となんら変わらない、優しくて純粋な、大人しいライオンさんのままであった。

 ところで、そんなランペルージ家にまたまた家族が一人増えた話をしよう。
彼女の名前はC.C.。
人間の姿をしているが、その正体は何者なのか全く分からない。どうして家族になったのかも分からない。
とにかく、謎の人物が一名家族に加わったのだ。
 ジェレミアがオレンジばかり食べているのに対し、彼女が食するのはピザばかり。ルルーシュの部屋のベッドを占拠して、かなり図々しくのさばっている模様。
ジェレミアに対しては、優しくもなく冷たくもなく、といったところだろうか。普段ナナリーの部屋で暮らしているジェレミアとは、部屋も違うしお互いあまり干渉することもなく、大きなトラブルが起きることも無かった。
 しかし。魔女と名乗るこの女が来てから数日、ルルーシュの新しい秘密が発覚した。
今世間を騒がせている正義のテロリスト、《ゼロ》。その正体がルルーシュ・ランペルージだったというとんでもない事実が。
C.C.は、そのゼロの協力者としてここにやってきたらしい。

 …ジェレミアがこのことを知ったのは全くの偶然であった。
それは、ある晴れた日。学園内に、ゼロの仮面を被った猫が現れ大騒動となる事件が発生した。
学園の生徒達は誰一人としてその仮面を見ていなかったのだが、ルルーシュが猫を追いかけて部屋から飛び出していった時、空っぽの部屋に残されたゼロの衣装、そして猫から仮面を回収しているルルーシュの姿を見てしまったのだ。
 そのことはしばらく黙って、ルルーシュの事を疑いながら生活していたジェレミア。
ルルーシュが、こんな大きなことを自分にもナナリーにも隠していたのがショックだったのだ。
ルルーシュのことが少し信じられなくなった。やっぱり人間はこういう生き物なのかと失望しかけた。
だけど、毎日テレビからはゼロの勇姿が。ゼロの正義が。そんなニュースを目にする度、ゼロはテロリストだけどいつもの優しいルルーシュなんだな、と思い直して。
 …ジェレミアは思い切ってルルーシュに打ち明けた。全て知ってるよ、と。
あの猫騒動の時にゼロの正体がバレていたことにまず慌てたルルーシュ。こんなに慌てたルルーシュは見たことがない。こんなことが世間に知れたら、ゼロもルルーシュ・ランペルージも破滅だと…。
だけど、ジェレミアはそのことを誰にも言ってはいなかった。
自分の存在、特異なライオンの秘密を黙っていてくれるルルーシュだから、自分もルルーシュの秘密を守る。
これを聞いて心底ジェレミアを信頼したルルーシュ。やっぱりジェレミアは紛れもない家族だと、改めて思い直した様子であった。

 それからというもの、ルルーシュは積極的に話をしてくれた。
C.C.との関係も、黒の騎士団のことも聞いた。ナイトメアの話とか、政治の話とか、これまでは話すことも無かったような話題が交わされるようになった。
ただし、ゼロのことはナナリーには内緒なのだとか。それがナナリーの為なのだとか。
C.C.もジェレミアも毎日そのことを固く言いつけられていた。
ゼロに関すること…騎士団もナイトメアも何もかも含めて、ナナリーには黙っていること!と。
ナナリーのために、ジェレミアのために、家族のために、優しい世界を作ると誓ったルルーシュ。世界のために、テロに身をやつしたルルーシュ。
そんなルルーシュをこれまで以上に好きになったジェレミアであった。



 ある日の朝。
これから、大きな戦いが起きるとだけ告げたルルーシュが、一人アッシュフォード学園を立ち去った。
もちろん、表向きには真面目な学生を装った口実が広まっている。
残された家族三人は、クラブハウスにていつもと変わらぬ生活を送る…はずだったのだが、魔女の我儘が俄かに運命のねじれを呼び寄せた。
「おいジェレミア。私は今からルルーシュを追ってナリタに行く。お前もついて来るか?」
思いがけない誘いだった。
これまでC.C.と一緒に出かけたことなど無い。それどころか、ここに来てから学園の外に一歩も出ていない。
外の世界は怖い。だけど、ルルーシュがいるのなら…。
ナリタなんて聞いたことのない所であったが、ルルーシュがそこにいるのならきっと安心できるだろうと思い、ジェレミアはC.C.と一緒にルルーシュを追いかける運命を選ぶことにした。
 人の目を引くライオンは、大きな鞄に隠れて学園を出た。電車に乗って、着いたのは人気のない街。
鞄の中で電車に揺られ、少し疲れたのか、ジェレミアはスヤスヤと眠っている。
そして歩いて、場所は街の外れ。人目に付く心配も無くなりもう鞄から出てもよかったのだが、そのままの成り行きで魔女に担がれ、気付けば山の中腹にある山小屋の中にジェレミアはいた。

 空から、白いものがフワフワと降り注いでくる。窓の外に見える幻想的な白い地面。目覚めの悪い、寝ぼけ眼に見えた幻かと思った。
しかし、それはどうやら現実のようで…。
 小屋の外から声が聞こえた。C.C.と…ルルーシュの声だ。
『……雪がどうして白いか、知っているか…』
C.C.の声だ。
(この白いフワフワしたものは雪っていうのか…)
まだまだ世界にはジェレミアの知らないものがたくさんあった。
きっとこれからもいろんなものを見る。これから起きる新鮮な出来事に心を踊らせるジェレミアであったが、ルルーシュの口からは残念な言葉が返ってきた。
 《おるすばん》
せっかくこんな所まで来て、やっとルルーシュに会えたのに、まさかのお留守番。
ルルーシュは一人で行ってしまった。C.C.も残して。
でもそれがゼロの仕事なのだろう。今のルルーシュは正義の味方、正義の味方に家族なんていらないのだ、きっと。
仕事の邪魔をするわけにもいかない…ジェレミアはそうやって自らを納得させると、山小屋に戻ってC.C.と一時の団欒を過ごすこととなった。
 雪のこと、いろいろ聞いた。
 ピザのこと、いろいろ話した。
普段あまり話すことのなかったC.C.だが、話してみるととてもいい人だった。
ちょっと変わってるけど優しい心の持ち主だと分かった。
 そんな平和な時間が続いていた、その最中に。
突如山頂から大きな音がした。いよいよゼロの戦いが始まったのだ。
見たかったゼロの正義が、とうとう生で見れる。外がどうなっているのか、いても立ってもいられなくなったジェレミアは、白い雪が積もる冷たい地面に降り立った。
 山頂は霞んでいる。ゼロの姿も見えない。だけど、地面だけが大きく揺れている。
次は一体何が起きるのだろう…怖いけど、楽しみ。それは、ゼロを信じているから…。
信じて……

 突然足下の地面が崩れた。
自分が立っていた大きな岩が、どんどん下に向かって滑り落ちていく。周りの樹々も、崩れゆく地面に飲み込まれていく。
『ジェレミァァ…』…
C.C.の声がする。C.C.が手を伸ばしている。だけど、届かない。
C.C.が小さくなっていく。山小屋が遠のいていく。
ルルーシュは、いない。
ゼロも、いない。
言い知れない恐怖の中、崩れる山に飲まれながらジェレミアはいつしか意識を無くしていった。





 山頂から、石や枝が転がり落ちてくる。地面が流れてくる。
目覚めの悪い、寝ぼけ眼に見えた幻かと思った。
しかし、それはどうやら現実で…白い雪とは対照的な、最悪の光景で…。
 幾重にも重なりあって倒れた樹々の中、泥と石に抱かれジェレミアはゆっくりと目を覚ました。
視界に広がる世界。…幻想は完全に崩れ落ちていた。大地は破れ、樹は折れ、塞がれた道はさながら閉ざされた未来の如く。絶望の象徴としてジェレミアの脳裏に強く焼き付いた。
曇り空から降り注ぐ白い雪が僅か数時間前の楽園を思い起こさせ、虚しさが余計に増長するばかり。
山小屋はどうなったのか。C.C.はどこにいるのか。ゼロは、何をしたのか――――――
 何もかも分からなかった。
ゼロが世界を崩した? 正義の味方なのに?
あるいは、それが正義のための、行為の一つだったのか?
自分は、正義のために捨てられたのか?
それとも、自分がはしゃいで外に飛び出した所為で起こった事故だったのか…
 辺りには誰もいない。いたところで、きっとそれは信用できない怖い人間なのだろう。
たった一人で、しかもこんな状況で、答えなんて見出だせるはずもなかった。
だけど、いつまでもここにはいられない。こんな絶望の中になんていたくない。
未来は自分で見つける、いつか故郷の森を旅立った時に決めたことだった。
今が絶望だとしたら、ここから抜け出すのは自分の力だ。ゼロに…ルルーシュに会えさえすれば、きっと絶望から抜け出せる…!
ジェレミアはそう自分に言い聞かせ、幸せな未来を求めるべく、折れた枝の隙間をぬって道無き道をたった一人で突き進んだ。

 どこを見ても崩れ落ちた世界。まるでこの世の果てのようだ。
細かくささくれ立った枝がそこかしこに散っている。チクチクと体に刺さってはその歩みを止めた。
まともに歩ける道が見つかったかと思いきや、泥が深くて進めない。ぬいぐるみのような体が地面に吸い込まれるように沈んでいく。慌てて近くの岩に飛び移り、危険を回避したものの…荒れ果てた大地は、小さなライオンの足ではあまりにも大変すぎた。
 苦労を重ねること数時間。ようやくまともな道、少し開けた場所に出ることができた。とても歩きやすい。あまり崩れた気配のない、自然のままの森だった。
あの絶望の世界が嘘のよう…。すぐ近くに人間の街があるというのに、人里離れた緑豊かな故郷の森にそっくりだ。
こんな場所が、こんな近くにあったなんて…。
ジェレミアは感慨深けに、その緑の世界をじっくりと見渡しては、小さな安らぎを覚え心を落ち着かせていった。
 しかし…景色にかまけてすっかり忘れていたが、ふと見れば体は傷だらけ。泥まみれ。
そういえば、昔もしょっちゅうこんなだった気がする。
仲間のライオンたちに虐げられ傷を作っては…こうして誰も来ない深い森の奥で一人…
なんだか昔に戻ったような、そんな気がした。
誰もいない静かで平和な森を…楽園を求めていたあの頃に。

 誰もいない…森…

自分は、こういう森を探していたのだろうか。
楽園は、ここにあったのだろうか…。
人間…ルルーシュ…家族…

 ジェレミアの頭の中で、たくさんの思い出が渦巻いた。
楽しかったこと、辛かったこと、寂しかったこと。
記憶が蘇る度、その感情を天秤にかけた。
静かな森と、暖かな家族。どちらが楽しくて、どちらが辛かったか。どちらが寂しかったか。そして、優勢が静かな森に傾きそうになる度、必死に自分を比定した。ルルーシュは、きっと悪くない…と。
だけど、ルルーシュは助けに来てくれない。C.C.もいない。それもまた事実で…ジェレミアの心は様々な思い出と家族への不信感、過去と緑となんだかいろいろなものが入り乱れ、大いなる悩みとなって不安を生み出していった。
 そうして歩き続けること数分。ふと樹々の奥で、緑の楽園を否定するある人工物が目に止まった。
それはコクピットブロックと呼ばれるナイトメアフレームのパーツ。金属製で、無骨で、静かな森にはまるで似つかわしくない。やっぱりここも人間に開拓されているのか…
 しかし、よく見れば不自然なほど歪な形に変形している。燃えたのか、何かに強く打ち付けたのか…どうしたらああなってしまうのだろうと思う程に。
ナイトメアのことはルルーシュからいろいろ聞いているから少しは知っているのだ。
『コクピットブロックは、本体から外すことができる。
命の危険を感じたらコクピットごと脱出することができて――――――』
ジェレミアの中で、何か得体の知れない不安が過ぎった。
(まさか…ゼロが…?)
 思考より早く、体が動いた。真っ直ぐその人工物に走り寄り、中に向かって必死で叫んだ。
ゼロ、ゼロォォォー、と。
 ジェレミアは周りが見えていなかった。
人気の無い森だったとはいえ、無意識のうちに人間の言葉を使ってしまっていたこと。そして、コクピットブロックの色がゼロの乗る無頼のものと少し違っていたことに…もう少し早く気付けばよかったのだ。
ジェレミアの呼び掛けが功を奏してか、ハッチが開いてパイロットが出て来た。



 青緑色の髪。整えられていたであろうそれは、少し乱れ気味に外へハネている。
ブリタニアの紋章が入った青と黒のパイロットスーツを纏った後ろ姿は、細く引き締まったシルエットをしていた。
ゼロとは、似ても似つかない。中にいたのは全く知らないオレンジ色の瞳をした一人の青年だったのだ。
 ジェレミアは慌てて物陰に隠れた。そして後悔した。これからどうしよう。
夢中になって、気がつかなくて、何かとんでもないモノを目覚めさせてしまったみたいだから。
何故色が違うことに気付かなかったのだろう。そして、何故ゼロなどと叫んでしまったのだろう…。
不安駆り立つジェレミアの胸中とは裏腹に…静かな森では今もその言葉が響き続けていた。

「ゼーロォォォーー!!!」
「うああああゼロぉぉぉー!!!」

 さっきの人間だった。
何かに取り憑かれたかのように、天に向かってその名を叫んでいる。憎しみに満ちた目で、狂ったように、声の限り、ただただその名を連呼している。
…一体何なのだ、この人間。幸い見つかっていないらしい、ジェレミアはそのまま物陰からこの奇妙な人間を観察してみることにした。

 さっきからゼロとしか言っていない。
…一体ゼロがどうしたというのだろう。
見れば左目に傷を負っている。
…体の内側から爆ぜ、焼けついたような、目を背けたくなる程の深く痛々しい傷を。
でも体には何も…しかし内側から爆発したとしたら、分厚いパイロットスーツの下が一体どうなっているのか…。考えただけで体が震えた。
こんなに傷ついているのに、痛みを感じていないのだろうか、ただ無心にゼロを求めて声をあげ、辺り一帯を走り回っている。
ただ、やはり体がついてこないのだろう、だんだん足取りから元気が無くなっていった。小石に躓いては転び、泥濘に足を取られては転び、それでもなお必死に立ち上がろうとしている。
だけど立てなくて、それでも這いつくばって、近くに落ちていた細い枝を掴むと、疲れ切った体を預けてまたゼロの名を叫びながら歩き出した。
 ジェレミアには分からなかった。
この人間が、何故それほどまでしてゼロを求めるのか。
この人間は、過去にゼロと何があったのだろうか。
ただ一つ分かったことは、この人間はゼロしか見えていないということだけだった。



 「ゼロ…いない…。ゼロぉ……」
どんなに探しても、ここにゼロはいない。それが分かった途端、体中の力が抜けた。
気力だけで立っていた足は支えを無くし、忘れていた激痛が左目に突き刺さる。
誰もいない静かな森の奥、声にならない声を上げながら生気を無くしてその場にへたりこみ、左目を押さえたまま無為に泣き崩れた。
ずっとゼロのことしか頭に無かった所為で、何もかも感じなかったのだろう。それが虚無と化した今、堰を切ってのしかかったのだ。
傷の重さに耐えられない。
苦悶に満ちた喘ぎ声と、呼吸の乱れた荒い息。
視界がぼやけた。
痛さの涙か、悔しさの涙か…あまりの辛さに右の目から涙が溢れ、零れ落ちた。
止まらない。
いっそ大声を上げて、思い切り泣き叫びたかった。全てを忘れて泣いてしまいたかった。
だけど、もう声も出ない。俯き、痛みも悔しさも抱え込んで、ただ孤独に嗚咽した。
 足元に広がる冷たい泥水の中に溶けていく涙の粒と、風に揺らめく樹々の音に消されていく悲痛の声。
全てが、無に帰していく。無かったことになっていく。
どんなに泣いても叫んでも、全ては無…何も変わらない。傷の痛みも、心の靄も。
ゼロは、いない――――――


 陰から全てを見ていたジェレミアは、その姿に奇妙な親近感を覚えていた。
…思い出さずにはいられなかった。あの時の虚無を。
 楽園を探して、痛みも忘れて無我夢中でビルを上り、そこにあった広大な虚しさ。
我に帰った時初めて感じる傷の重さ。
忘れていた痛みと、失望によって生み出された心の疲憊。
言葉にならない辛さが、気力も声も、生きたいと思う気持ちさえも奪っていくということを――――――。
 いつしかの自分を重ねて、そして気付けばその目にはうっすらと涙が溜まっていた。
目の前で泣いている、あの人間の痛みがなんとなく分かるのだ。
もちろん、あんなに深い傷を負ったことはない。だから、きっと更なる痛みを抱えているのだろう。
自分は、その後ルルーシュとナナリーに拾われた。ほんの小さな優しさが全ての痛みから救ってくれた。
だけど、あの人間は……

 ジェレミアは、目の前で泣いている一人の人間をとても助けてあげたかった。
こんな時必要なのは優しさなのだと知っているから。
…だけど、相手は人間なのだ。しかもブリタニア軍の。
むやみやたらと自分の姿を晒すなんて自殺行為だ。それについても嫌と言うほどよく知っている。
だけど、この人間に軍事力なんてあるのだろうか。それどころか、命の灯火さえも…
 ジェレミアは葛藤した。
優しい人間は大好きだ。だけど、冷たい人間のほうが多かった。
だから、優しい自分になりたかった。
冷たさの裏にある醜さを知ったから。優しさの裏にある笑顔に、何度となく安らぎを貰ったから。
今度は自分が笑顔と安らぎをあげたかった。
だから――――――

 …ただの青緑の鬣をしたライオンのフリをして、人間と暮らしていることも人間の言葉を話せることも全て隠して。
倒れ伏した人間の、焼け爛れた左目を優しく舐めてあげた。
それは、孤独と淋しさに溢れた涙のような、そんな血の味だった。
心の傷までは届かないかもしれないけれど、せめてもの幸せを――――――

 突然現れた野生動物に、案の定驚いたのは人間の方であった。
しかも奇抜な色の鬣に星型の痣。何をされるのか、食われるのだろうか、逃げ出したい気持ちで心はいっぱい、一瞬だが痛みもゼロも頭から消えた程に。
だけど、もう自分が動けないことも知っているのだ。
逃げることもできない。戦うこともできない。誰も助けに来てくれない。
何の抵抗もせず、涙の溜まった哀れな瞳で小さなライオンの姿をただじっと見つめていた。
そして、差し延べられた温もりをあるがままに受け入れたのだった。
(何だ…この不思議な感触…。)
(何故だか分からないが…心なしか痛みが落ち着いていくような…。)
 少しだけ戻った穏やかな表情。止めどなく溢れ続けていた涙もあっさりと枯れた。
孤独と痛みに耐えきれず、壊れそうになっていた心が、ジェレミアのあげたほんの小さな優しさで持ち直すことができたのだ。


 これで、思い残すことはない。
この人間がこれからどうするのか、このまま死んでしまうのか…最期まで見守ってあげたいところだが、自分も早くゼロと合流しなければならない。いつまでもここにはいられないのだ。
背中を向け、森の奥へと立ち去ろうとしたジェレミアの後ろから、か細く掠れた人間の声がした気がした。
『ありがとう…』と。
 振り返ると、また情に流され別れが辛くなる。そのまま真っ直ぐ森の奥へと走り去…るつもりだったのだが。
ガサガサと何かが動く音がやけに耳に響いて、どうしても気になって振り返ってみると、また枝を掴んで立ち上がろうとしているではないか。
どこにそんな力が残っていたのだろう、感心を通り越してジェレミアはただ驚愕した。

「ゼロ…は…かならず…わた…し…が……。」
声にならない声で、ぼそぼそと呟いているのが聞こえる。
まるで自分に言い聞かせるように。ここで死ねない、と。
「ゼロ…捕らえ…る…」
「その…答え…オレンジじゃ…ない…」

 …放っておくつもりだったのに、できなくなった。
【オレンジ】。
どうしてこの単語が出てくるのか。
しかもなんの脈絡もなく。突然に。
まぁ、この人間はなんらかの意味でオレンジを否定したがっているようだが、髪の色に瞳の色、そして境遇、オレンジ。自分との接点のあまりの多さに、奇妙な親近感がその一線を超えるのは容易なことであった。
 迷わず戻るジェレミア。
今にも倒れてしまいそうな程弱り果てた、自分にそっくりな人間の足元にしおらしくすり寄った。
少しでも側にいたかった。何の役にも立たないかもしれないが、何か力になりたかった。
溢れ出すその感情が、押さえられなかったのだ。
 またやってきたライオンに僅かな驚きを見せた人間だったが、もう最初の時のような寂しい目をしてはいない。
こちらに優しい顔を向けたかと思うと、しゃがみこんでそっと手を伸ばし、自分と同じ青緑色の頭をそっと撫でてくれた。

 …もう、全てをぶちまけてしまいたい。人間の言葉で、この人間と話がしたい。いったいゼロと何があったのか、何をされたのか、聞きたかった。聞いてあげたかった。
辛いことも寂しいことも、受け止めてあげたかった。
だけど、必死の思いで踏み止どまった。知りたい気持ちをぐっと堪え、普通のライオンのフリをした。
今は、普通のライオンでいなきゃいけない。絶対に知られてはならない。
(…静かな森の楽園じゃなくて、必ずゼロの元に戻る!)
ゼロとこの人間の間に何があったのか。どうしてこんな酷いことをしたのか。人間の言葉で問いただすのだ。
だから、ゼロの元に戻るまで、誰かに掴まるわけにはいかない。
ゼロなら言葉で話せるから。ゼロならきっと…
 …ジェレミアを悩ませていた一つの問題が、ここで結果を出すことになろうとは。
もうジェレミアには、ゼロの元に戻ってゼロに全てを聞くことしか頭に無かった。
静かな森という楽園は消えて無くなっていた。
ただ、これは苦渋の選択だったのだ。
決して静かな森に魅力が無いわけではない。緑の楽園はきっと存在するのだろう。
だけど、ジェレミアは家族の楽園を選んだのだ。
そして、辛い選択はこれからもある。家族の楽園は虚無かもしれない。もし、ゼロが自分に内緒で、裏で酷いことをしている悪い奴だったら…。
 考え出したらきりがなかった。良い未来も悪い未来も、どちらもどこかに潜んでいる。
だから…その時は、静かな森の楽園を選ぼうかと。そんな風に思えるようになっていた
あるいは、他の人間に希望を託す新しい選択肢も。
そうだ、暖かい手をした人間なら、すぐ目の前にもいるじゃないか。優しい人間は、きっと他にもいる。きっと…。
だから……。
 未来に待ち構えるかもしれない辛い選択肢を、必死に頭の中から振り払った。
そして、今現在の問題を真っ直ぐに見つめた。
《森の出口》。
そこまで、何としてでもこの人間を連れて行こう、と。
森を出れば人間の街。そこまでいけば、傷の手当ても何とかなるだろう。
小さな自分には、体を支えてあげることも抱きかかえて歩いて行くこともできないけど。
道を探してあげることはできる。
野生の勘というヤツで、何とかなるかもしれない。とにかく一人で行かせるよりはマシなはずだ。
自分にもできることが、きっと何かあるに違いない。

 開けた道、崩れた道、道無き道。その道のりは、長く険しい樹海だった。
折れた枝が散っていたり泥が深くて進めなかったり。地面が崩れて崖のようになっている場所なんかも存在していて。
しかし、障害物は多々あれど、お互いが協力しあうことでその困難も何とか乗り越えることができた。
瀕死の人間と小さなライオン。何の役にも立たなそうな者同士だが、僅かな力も合わせれば意外な程に実を結ぶ…。
 もう、一人静かな森で暮らす夢なんて捨てよう。
人もライオンも…きっと一人では生きていけない。必要無いと割り切っても、どこかでふと優しさや温もりを求めてしまう。
寂しさは、一人では癒せない――――――
 白い雪は未だ時折チラチラと二人の上から降り注いでいた。でも今は、幻想的な光景なんて求めていない。
今は、現実を見つめる時なのだ。
 傷つき、挫けそうになった心を励ましあって立て直す。互いに寄り添い、暖め合い、両思いに深まっていく親近感。奇妙なコンビだが、今やとても心強い相方にさえ思えてくる。
そんな二人の時間は、刻々と終わりに近付いていた。




 ようやく見えたのは、待ちに待った森の出口だった。
お互いボロボロになりながらも、何とかここまで辿り着くことができたのはもはや奇跡と言うべきか。
しかし、この喜びは別れの時でもあったのだ。
普通のライオンは、森から出てはいけない。ここから先は人間の街だ。
人間の街を通ってゼロと合流する方法もあったが、それはこの人間を遠ざけてからだ。
だから、どう足掻いてもここが別れの地になるのだ。
 もう、してあげられることは何も無い。ただ幸せを祈ることだけが最後の優しさだろう。
どうかこの人間が、仲間の元へ帰れますように。
優しさに包まれますように。笑顔で…幸せになれますように。

 言葉に出せない祈りを胸に、森へ戻ろうとするジェレミアを呼び止め、人間は名残惜しそうにお礼と別れの言葉を告げてきた。
『ここまで、ありがとう。またいつか、どこかで会えるといいな』と。
痛みは消えていないだろうに、それでも必死に笑顔を作って、小さな体を優しく抱き締めてくれた。

 ジェレミアは思った。
きっと傷を治して、ゼロの前に姿を現す日が来ることだろう。
それまでに自分はゼロと話をする。そして、いつかまた会えたら、その時もまたこうして笑顔で、今度こそ本当に笑い合えたらいいな…と。
暖かく微笑ましげな未来を、心の底から嘱望せずにはいられなかった。


 そして、お互いは背を向けた。ライオンは森へ。人間は街へ。
だけど、最後にもうひとつだけ交流を交わしたかったのだろう。言葉を持たないライオンに、何を思ってか人間は自分の名前を教えてくれた。

《ジェレミア・ゴットバルト》と――――――


 覚束無い足取りで街へと去りゆくジェレミアの後ろ姿を、小さなライオンはただ呆然と眺め、立ち尽くしていた。
髪の色に瞳の色。境遇に、オレンジに、そして…
これはただの偶然だったのか。それとも、運命の悪戯だったのか。


もうすぐここに、《機械の体》という新たな接点が加わることを…

この時はまだ、誰も知らない――――――――――――








………………fin









◆あとがき◆

 前回のお話でさりげなく予告していたお話がまさかこんなにも早く完成してしまうとは(笑) 何気に自分でもビックリですが、ジェレミアの寂しいお話はやけにスラスラと指が動きました。
そもそもは13星座占いのしし座ジェレミアの絵を描いていて、ネタでしし座メカジェレミアなんてのを描いて、そこから始まったこのシリーズ。
小さなライオンさんと本物のジェレミアが出会うお話をやってみたくて、シチュエーションの都合上こうなりました。
純血派のエリート時代に出会ってもきっと相手にされないだろうし(ジェレミア動物興味なさそうだから)、仲良くできるタイミングといえばもうこの時しかないだろうなーと。
最終的にジェレミアはこのあとCODE-R研究機関に拾われ正史に繋がるわけですが…アニメで語られなかったこの時期にこんな出会いがあってもいいんじゃないでしょうかw
…あれ、このシリーズは「そろそろジェレミアにも幸せを」だったような…今回ぜんぜん幸せになれませんでしたねえ(汗)
ライオンさんは決意が生まれ、人間のジェレミアは助けられたかもしれませんがこの後が、ねえ。
まあ今回は報われぬ運命とか寂しいオレンジとかいつもの方向のお話ということで…!Q.o.c.k.は歪んだ運命のお話が大好きなようです。

ちなみに今回一番言いたかったのは、「優しい人間は大好きだ。だけど、冷たい人間のほうが多かった。だから、優しい自分になりたかった」の三文。コンセプトはここです。前巻の、優しいルルーシュたちとはまた違った優しさのお話を作ってみたくて。

…さてさて、ライオンさんとオレンジシリーズ3、次回は多分メカジェレとの邂逅といったところでしょう。また歪みますぜこれは…

それではまた。今回も最後までありがとうございました!