時は年の瀬。白い雪がちらつく街は煌びやかな光と賑わう人々で活気づいていた。
店舗、街路樹、そこかしこに彩られた聖なる夜のイルミネーション。幻想の街中を行き交う人の顔は皆笑顔で溢れている。
仲睦まじいカップル、幸せそうな老夫婦、明るい親子。忘年会の帰りだろうか、スーツ姿の男たちも緩んだ表情で楽しそうに談笑していた。
暖かなコートに身を包み、寒さも忘れて楽しい時が彼らには流れていたのだ。
そんな街を、一人の男が浮かない顔でとぼとぼと俯きながら歩いていた。
身に纏った服は酷く薄く、舞い散る雪が積もりじっとりと湿っている。
真っ白な息で必死に温めている掌はすでに赤く霜焼けていて。
そんな力の入らない手で必死に抱えた籠の中には、綺麗な色をしたたくさんのオレンジが盛られていた。
 ジェレミア・ゴットバルト。元辺境伯。元軍人。元……
…俗に言う没落貴族というやつだ。昔は軍のトップでこのエリア11を掌握していたというのに、今では階級も剥奪されオレンジを売って生活している。なんとも惨めな話だ。
今日中にこのオレンジを売り切らなければ、本当に行くところが無い。落ちぶれた男を拾ってくれる家などそうそう無いのだ、寝床も食事も与えてくれるオレンジ畑の主に、逆らうわけにはいかなかった。

 そんな彼の過去を街行く人は知っているのだろうか、貴族の男が必死に抱えたオレンジは虚しくも一つとして売れなかった。
決して法外な値段を付けているわけではない。平民を見下すような態度を取っているわけでもない。見た目も悪くないし、商品そのものの魅力は十分にあるだろう。
だがこんな時期に、こんな街中で、素性も分からぬみすぼらしい男が売り歩くオレンジなど誰が買うものか。
需要は苺や橙なのだ。クリスマスにオレンジを食べる習慣は無い。鏡餅にオレンジを乗せる伝統も無い。
通り過ぎて行く人に必死に声を掛けるも、相手にすらされなかった。
 足取りが重くなる。寒さに体力をどんどん奪われて、体が動かなくなっていく。しかし、このままでは帰れない。帰ったところで追い出されるのだ。結局寒空の下へと放り出される…オレンジを売る以外に、生きていく道など…。
 ジェレミアは趣向を変え、商店街から離れた買い物に不便そうな地域に足を運んでみることにした。
深い雪の中をあてもなく三十分、イルミネーションは瞬く間に減り、道は街頭の明かりだけで薄暗い。仕事や行楽、飲み帰りの人々がぽつぽつと行き交っているだけで、ずいぶんと質素な雰囲気へと変わっていった。
 しかし、どこに行ってもオレンジは全く売れず。楽しそうに帰路へとつく人々は、ジェレミアに声をかけられた途端不機嫌そうな顔つきへと変えそそくさと去っていくばかり。
憐れみの眼差しを向ける者もいた。目線も合わさず無視する者も多い。黙れ、邪魔だと罵られ、差し伸べた手は払いのけられた。
ついバランスを崩し、雪の中に倒れかかる。籠の中身は飛び出して、辺り一面に散らばった。
(誰も買ってくれない。誰も相手にしてくれない。誰も…)
足跡で踏み荒らされた雪のアスファルトに転がるオレンジを、必死になって拾い集めた。
冷たい地面に膝を付き、涙を零しながら散乱したオレンジをかき集める。
しかし、戻ってきたオレンジは、傷が付いてもうだめになってしまったものもあった。
(ただでさえ誰も買ってくれないのに、これじゃあ…)
途方に暮れるジェレミアの後ろで、窓越しに聞こえてくる黄色い声。凍えた心に例えようのない孤独を深く植え付けられ、涙はさらに流量を増していたという。

 とうとう耐えきれなくなったらしい、いけないことだと分かりつつ、カーテンの少し開いた隙間からジェレミアは賑やかな世界をそっと覗きこんだ。
結露で曇った窓越しに見た家の中。そこではクリスマスパーティが賑やかに行われていた。
机の上に並べられたたくさんの料理。美味しそうなケーキ。壁はラメやモールで飾り付けられ、皆薄着で楽しそうに聖なる夜を過ごしている。
…羨ましかった。
かつては自分も仲間たちとこうして楽しい一夜を過ごしていた。エアコンの効いた暖かな部屋で、お腹いっぱい美味しいものを食べていた。
だけど、今は…。
雪の積もった窓辺の地面に腰を下ろすと、傷ついたオレンジをそっと口に運んだ。
甘い味が口いっぱいに広がる。昨日からオレンジは一つも売れておらず、何も食べさせて貰えなかったジェレミア。丸一日ぶりに食べたその味は、かつて貴族の頃に味わったどんな高価な料理より美味しく感じてならなかった。
(こんなに美味しいのに、誰も買ってくれない…)
しかし同時に虚しさも植え付けてしまったらしい、気づけば両目には再び涙が溢れんばかりに溜まっていた。
窓の向こうからはまだ楽しそうな声が聞こえてくる。ふと見れば料理も無くなっていた。

 思い切ってこの家を訪ねてみることにしたジェレミア。
大丈夫、この味なら胸を張ってお勧めできる、と。
玄関の短い階段を上がり、かじかむ手でインターホンを押す。

『オレンジ、いりませんか―――――。』

しかし、家の中から出てきた男はジェレミアを見るなり、
『なんだ貴様は! そんな汚らしいオレンジなど誰が買うか!』
『そんなことないです、美味しいです、お願いです、買って…』
『…黙れオレンジ売り!!』
男はジェレミアを階段から突き落とし、イライラしながら勢いよくドアを閉めた。
 氷の張った固い地面に背中から倒れ込む。大事に籠に詰めていたオレンジは再び散らばり傷ついた。

 さっきの男の楽しそうな声が家から聞こえてくる中、涙を堪え必死にオレンジをかき集めるジェレミア。
しかし、凍える手が掴み取ったのは皮の破れたオレンジ、潰れたオレンジ、土だらけのオレンジ…籠の中に戻ってきたオレンジはどれもそんな有り様だった。
僅かに残った綺麗なオレンジを内側のほうへと大切にしまい込む。
薄れ行く希望。命の灯火が弱まっていることが分かる。この潰されたオレンジのように、己の死期がうっすら見えた。
涙を堪え、背中の痛みを押してふらつく足で立ち上がるジェレミア。
まだオレンジは残っている。まだ歩ける。

オレンジ、いりませんか。
オレンジ、買ってくれませんか。
オレンジ……

か細い声が雪の中にかき消され、オレンジ売りの貴族もまた銀世界の中へと消えていった。


 時は流れもう深夜だろうか。賑やかだった家々からも徐々に明かりは消えていき、街行く人々の姿も無くなっていた。
静かな街。雪は激しさを増し、吹雪と化して傘のないジェレミアの体を容赦なく濡らす。
貧しくぼろぼろのブーツはどこか破れているのだろう、靴の中には氷のように冷たい水が深く溜まっていく。
 寒さで意識を無くしそうになったジェレミアは、売れないオレンジを再び口に運んだ。
甘い。生き返るような美味しさ。不思議と寒さも忘れて幸せな気分に包まれた。
薄皮も、白い筋も何度も何度も噛んで味わう。こうしている間だけが至福で、口の中が寂しくなったら…再び極寒と孤独の現実へと引き戻された。
誰もいない街。冷たい雪。帰る家は無く、食べ物も無い。もう感覚も無くなるほど凍りついた手で抱える重たい籠。だけど、誰一人としてオレンジを買ってはくれない……

 道端にへたりこむジェレミア。籠の中には、傷ついたオレンジがまだ残っている。数個のオレンジで空腹は満たされず、胃は食べ物を欲していて。小さな幸せがどうしても恋しくて。
早く売りに行かねばと思いつつも、ジェレミアは耐えきれず至福を乞うた。
一切れ。二切れ。美味しい。噛むたびに口の中で甘い果汁がじんわりと広がる。無我夢中で食べた。無くなった。無意識のうちに次のオレンジを剥いていた。
固い何かが歯に当たった。砂でも付いていたのだろうか。それでも喉を通しては、次の至福を手に取って。
今度のはシャリシャリしている。凍りかけているみたいだ。アイスみたいで美味しいな。
冷たくて…美味しい…とても…お…いし……い……




 翌朝。住宅街の真ん中で、小さな人だかりが出来ていた。
真っ白に積もった深い雪に抱かれるように、一人の男が倒れていたのである。
男の周りに散らばったオレンジの皮。
人々は皆この男のことを知っていた。

『ねぇあんた…オレンジ買ってあげたらよかったんじゃない!?』
『お前こそ…』
『いや俺は…』
『わ…私知らない…だって…!!』

皆、罪の擦り合い。私の所為じゃない。お前が買えばよかったんだ。涙を流す者も、後悔する者も誰一人としていなかった。
もっとも、どんなに優しい声が響こうと男にそれが届くことはないのだが。
閉じた瞼の下で氷となった涙の粒は、体温に溶かされることもなくずっとそこに留まっていて。泣きやむことの無い涙が頬を伝っていて。
もしも、このオレンジ売りの貴族に手を差し伸べてくれる人がいれば―――――

 固く握り締められた籠の中にはたった一つ、世にも美しく大きなオレンジが大切そうに残されていたという。



………fin




◆あとがき◆

はい、終わりました!
またまた寂しいジェレミアのおはなしでしたが…いかがだったでしょうか。

この話は、以前しょんぼりオレンジに飢えていた時知り合いから『ジェレミアでマッチ売りの少女やればいい(・∀・)』とネタを振られ、今頃になって形になった小説です。
ギアスオンリーの準備で忙しかった所為で年明けちゃいました(^^;)


 ストーリーはまぁ今更解説する必要はないでしょう。
しかしキューエルは相変わらずだな、と。
わざわざ訪ねて売るなんて強気なセールスさせたくなかったんですけど、キューエルに黙れオレンジ言わせたかったのでこうなりました。

そうそう、話上げてから表紙描いたので、表紙がとても寂しそうです。
こんな子が泣きながらオレンジ売ってたら全部買いますよぉ!
売り子ごと連れて帰ります。(真顔)


…ネタは置いといて、今回も二時間で書き上げた話なのでとても短いお話でしたが、最後までありがとうございました!