それは、夢。



意識だけの世界に見えた、朧気な視界。








 見覚えのある場所だった。
そして、見返したくない場面だった。

 鳴り止まぬ銃声。鳴り響く悲鳴。
広い階段の真ん中で、娘の小さな体を庇うようにして倒れ伏した一人の女性の姿が見えた。
背中の弾痕からは鮮血が流れ続け、生気が失われていく。
そして、この惨状にただ呆然と立っていることしかできないでいる幼い皇子…。

 八年前のアリエス宮だった。
数枚の静止画で綴られていくあの日の惨劇。
フルカラーの一枚絵が、忘れ去りたい記憶の回路を容赦なく抉(えぐ)る。
コマ送りよりも、紙芝居よりも、ずっと少ない枚数だというのに、そこから思い出される記憶は果てしなかった。
意思は届かない。救ってあげられない。歴史は変えられない。それでも見せつけられる過去。
 目を背けたくなるような視界の中に、見た事のない絵が不意に現れた。
階段の下から皇妃に向かって銃を構える、一人の男の絵が。
警護隊の制服に身を包み、細やかな装飾が施された大型の銃を構える両手には、迷いというものが全く感じられない。

(この男がマリアンヌ様を殺したのだろうか…?)

 顔は分からなかった。
いや、男であるのかどうかも身長からの憶測にすぎない。
顔の辺りだけが真っ黒な闇で覆い尽くされ、その中でただ一つ…左目だけがはっきりと色付いていた。
渦を巻いた、独特の模様をしていたから。
まるで電光パネルのような、鮮やかな緑色の光を放っていたから。
死んだ人間に向けられた、凍り付くようなその視線は、冷血という言葉ではとても足りないだろう。人間であるのかすら疑うほどに。



この絵を最後に視界は暗転した。

最後に見たあの絵は何だったのだろう。
ただの夢の話か、それとも現実だったのか。
(あんな目をした人間は二人といないだろう。もしもそれを手掛かりに犯人を見つけることができれば…。)



 やがて意識は薄れ、また深い眠りの中に落ちていった。

何もない、真っ黒な世界しか見えない、深い深い眠りに。










 また、夢が現れた。
静止画で綴られる鮮明な世界。

 そこは八年前の世界ではなく、身近な場所…旗艦・グランドワンの指令室だった。
ほとんど何も見えない、真っ黒な部屋。照明は全て落とされ、モニターなどの機械類からも一切の光は漏れていない。
そんな中に響く、一つの硬い足音。
ゆっくりとした歩みは階段を上り、やがて玉座の前で音を消した。

 そして。

 銃声。

これまでの静寂が嘘のような、激しい音が耳を劈(つんざ)く。
人が倒れたような音。
悲鳴は無い。喘ぎ声すら聞こえない。その人間にもう息は無い。

 享年二十四歳。
 ブリタニア帝国第三皇子、クロヴィス・ラ・ブリタニア。

 また救えなかった。どう願っても歴史は変えられないのだろうか。
止めることが、庇うことが、周りに知らせることができたら。
たとえ夢の世界であっても、そこに干渉することは許されなかった。
 痛む心に休息の時は無い。何事も無かったように次の絵が見せつけられた。
死んだクロヴィスに銃を向ける男の絵。
あの緑の目の男だった。凍るような視線で、目の前の死体を見下している。
右手には、軍から支給されている標準装備の拳銃。
身に纏った指揮官用の青いパイロットスーツは侵入するための変装なのだろうか。
見えるのは体だけ…首から上はやっぱり真っ黒で、その闇の中左目だけが電子的な光を放っていた。
(この目…マリアンヌ様とクロヴィス様を殺したのは、同じ人物なのか…?)

 ただの静止画。ただの夢。
普段ならその手のものは絶対に信用しない性格だというのに…何故か今回に限っては例外だった。

どことなく感じる不思議なリアリティ。
普段見る夢との、絶対的な違い。
過去を掘り返してもやっぱり過去でしかないのに。
心の傷が絵を見る度に疼き出す。
この夢は一体何なのだろう。




 気付いた時には意識の無い、深い眠りの世界へと移行していた。










 夢だ。
 またあの夢だ。
 心を、記憶を掻き乱す悪夢。

 ぼんやりとした視界に広がったのは夜のトウキョウ疎界だった。
ふと違和感が襲う。今までの夢には無かったこの感じ。
そう、この夜景は一枚の絵が見せつける端的な世界ではなく、完全なる動画の世界だったのだ。
それも、古いビデオテープを再生したようなノイズ混じりではなく、まるでその場にいるかのような臨場感溢れるクリアな映像で。

 沿道を埋め尽くすブリタニア人。年齢性別を問わず、とにかくたくさんの人間が道路の脇で何かをしきりに見つめていた。
クロヴィス殿下の車の上に立つ一人の男だ。
そして、対峙するようにナイトメアの操縦席に立つ一人の男。
 この光景は、あの枢木スザク強奪事件…通称オレンジ事件とも呼ばれている、思い出したくない過去のひとつだった。
いや、思い出したくても思い出せないのだ。
記憶に無い。
後に見せられたテレビカメラの映像では、たしかに枢木を逃し、ゼロの逃走を手助けしていた。
それでも、そんな命令を下した覚えなど…。
 嫌な過去だ。
それでも、今までの夢と違って、一時も目を逸らそうとはしなかった。
もしこれがただの夢であっても、失われた記憶の断片が見つかるのならば…。
 男…ゼロが車ごと近付いてきた。
こちらのナイトメアは枢木を乗せた機体も含めて全く動かない。
事件の後、取り調べの最中に何度も見た映像そのままじゃないか。
カメラアングルまで全く同じ、目新しい発見はまるでない。

やがて、その時が来た。
『フン、わかった。その男をくれてやれ。』
『くれてやれ。誰も手を出すな。』
 自分の声だ、間違いなく。
落ち着いたその言葉は、部下たちを、民衆を、テレビカメラを、明らかに動揺させていた。
何を言ってるんだ自分は。内容も文法もガタガタではないか。
が、何故こんなことを言ったのか全く思い出せない。
 いくつもの疑問が思い浮かぶ中、やがて映像に変化が訪れた。
これまで遠目から全体を写した場面か、ゼロのアップがほとんどだったというのに、自らを主役にしたかのような内容に切り替わったのだ。
随分と近くから自分の姿が撮られている。当たり前のような顔でおかしな命令を下している自分の姿が。
ふとそんな自分の姿を見て、思わず目を疑った。そして…否定した。

 サザーランドの上に立ち、枢木を逃すよう命令をしている者。
代理執政官、ジェレミア・ゴットバルト。
…《 緑の目の男 》。

 これまで見て来た夢の世界で、冷血な殺人を繰り返していた男と同じ瞳をした自分がそこにいた。
現実世界で見せられた映像と同じように動き、同じ言葉を発してゼロと枢木を全力で見逃す代理執政官。
 ゼロが近付いてくるあたりまでは、たしかに両目ともオレンジ色をしていたはずなのに…。
その後の…ぽっかりと抜け落ちた記憶の部分にだけ、緑の目をした自分が立っていたのだ。
夢は真実を語る、と何かの本に書いてあったが…。
(これが真実なのか? マリアンヌ様を殺したのも、クロヴィス様を殺したのも、全て記憶を失った自分だったのか?
あの服装は変装ではなく、自分そのもので…だからあの警備の中でも侵入することが容易で…。)
 周りの状況がそうだと言わんばかりに、次々と条件を満たしていく。
否定するところが見つからない。
もう自分が怖くて仕方がなかった。
確証もないただの夢の世界で贖おうとして、思えば今のこの夢世界には自分しかいないのだと思い返して…。



 混乱の渦に飲み込まれ、自分が分からなくなっていく中、夢は静かに黒へと変化していった。
 






 リアルがやってきた。
リアルだけど夢、夢だけどリアルな時間が。
今回も臨場感溢れる動画がいきなり流れ出した。

 写し出された景色は疎界のようなビル街ではなく、小さな家や商店が並ぶ古い町並みだった。
空は雲に覆われ、昼間だというのに薄暗い。
(ここはナリタ連山の麓の町か…?)

 今までの夢から大体のパターンが掴めてきた。
嫌な思い出の嫌な部分がピックアップして再生され、否応無しに見せつけられるのだ。
この場所…夢の中とはいえまたあの赤いナイトメアと戦うのかと思うと気が重い。
先々の展開が分かっているのだから、もう一度やり直せば人生も変わるだろうが、意思は届かないし体も動かない。声すら出せない。
ただ見ているだけしかできないもどかしさ。
なんてつまらない夢なんだ。
 いとも簡単に撃破される自分。
客観的に見て初めて気付いた、この酷い戦い方。
間一髪、自動脱出装置で爆発を免れたものの…コックピットブロックは鬱蒼とした山の中に不時着して。傷ついた体を引きずって、あてもなくただただ歩き続けて。気がついたら町の中にいて。
(そういえばこの時のこともあまり記憶に無いな…。)

ゼロ。オレンジ…。生きて帰れたとしても、一体どんな処分を下されるのだろう。
そんなことばかり考えながら、険しい山道を必死に歩いていたのをなんとなくだが覚えている。
曖昧な記憶を補足するかのように、過去の自分を写し出す鮮明な映像。
あの戦いをやり直したいとか、次に戦う時の戦略とか、正直今はどうでもよかった。
そんなことより、もっと真剣に見なければいけない部分があったから。

《 左目 》

 最初の夢でマリアンヌ皇妃を殺した男。
二回目の夢でクロヴィス皇子を殺した男。
そして三回目の夢で枢木を逃した代理執政官。

この三人は共通して特異な左目を持っていた。
緑色で渦を巻いたような模様をして、電光パネルのように発光した…およそ人間の目とは思えないような代物を。

 思えばこの夢は、嫌な思い出が繰り返されているのではなく、緑の目の男が現れた時を順に見せているのではないだろうか。
この男にはきっと何か秘密があって、自分と何らかの形で関わっていて――――――。
ただの憶測にすぎないが、気が済むまで調べたいのだ。
あるいは、自分が忠誠を誓った二人を殺したかもしれないということを、ただ否定したかったのだけなのかもしれない。
 サザーランドに乗っていた時。赤いナイトメアに撃破された時。
確かに確認した。右も左もオレンジ色の瞳をした自分がいたことを。
ほんのわずかな安心。あぁ、良かった。
とはいえ、このオレンジ色というデフォルトカラーが激しく気に入らないは言うまでもないのだが。
 それで、問題はこの後である。
とにかく押さえていないとおかしくなりそうな程の、瞳の内側から焼けるようなあの感触が今も忘れられない。
ナイトメアですらいとも簡単に破壊できるような攻撃を生身に受けたのだから、当たり前なのかもしれないが。
耐えきれず、ずっと左目を押さえ続けていた自分に激しく後悔した。
たかが夢の話にすぎないというのに、気になって仕方がない。
くだらないことに妙な熱意を燃やすのは昔からの性格なのだが…夢の中でも治りそうになかった。

 やがて映像から緑が無くなっていく。ようやく山を抜けたのだ。
誰もいない静かな町に足音だけが響き、ゆっくりと動いていく景色だけの描写が広がる。
 この頃になると、もうすっかり歩き疲れて足取りがおかしくなっていた。
細い枝に縋るようにフラフラと歩く自分の姿など、見ていてちっとも楽しくない。
しかもいきなり道に飛び出して車に轢かれそうになるなど…カッコ悪いというか情けないというか、とにかく一言【嫌な思い出】だ。
結局左目がどうなっているか分からないまま、夢の中の自分は力尽きて倒れてしまった。
 ここから先の事は完全に記憶に無い。
映像は続くみたいだが…はたしてこれからの出来事は現実に起こった内容なのか、それともただの夢なのか。
わからないけど。たとえ夢でもいいから。自分は何をして、何をされたのだろうか。
緑の目の男の事も忘れて、倒れ伏したまま動かない自分の姿を必死に見つめ続けていた。
 数分の沈黙。
やがて車のドアが開き、中から白衣を着た男が数人現れた。
三人で何か話し合っている。聞こえない。
誰かに電話をかけている。誰と話しているのだろう。
辺りには誰もいない。何の音もしない。
気がつけば白衣の男に抱きかかえられ、車の荷台に放り込まれる自分がそこにいた。
意識を失い、何の抵抗もできなくなったその姿は、まるで捨てられた人形のようで。
階級も爵位も、上下関係も、そこには存在しなかった。
 大きなドアが閉まる。真っ暗な闇の世界。
うっすらと見えたのは、何やら大型の機械が多数積まれていることぐらいで。
俯せに寝かされ、ピクリとも動かない自分に半ば不安になり始めていた。
車は動き出し、エンジンやタイヤの音がうるさいほど聞こえるというのに。
揺れる車の中を転がって、金属の堅い床に何度となく体を打ち付けて。その度に正気が失われていくような気がした。

 相変わらず干渉できない夢の世界に対する苛立ち、そしてぶつけるあてもない現状にジレンマの繰り返し。
(そうだ…私は、一体誰となら話ができるのだ…?
どうすれば自分を救えるのだ…?)

これだけはっきりした世界、でもそこは意思の届かない夢の中、そんな夢を見ることしかできなくて、夢の外には出られなくて…。
混乱で傾きそうになっていた思考を無理やり正すかのように、突如それは現れた。
暗闇の中、緑色に光る左目を持った男が。

 瞳の光に照らし出された周りの景色は、大型の機械に囲まれた狭い荷台の中だった。
傷を負った左目、意識を無くしてずっと閉じていたままの瞳、車が揺れるたびに体を転がされていた自分は、もうそこにはいない。
床に背中を預けたまま、緑の瞳は荷台の天井をただ真っ直ぐに見つめ続けていた。

(やっぱり…私は、《 緑の目の男 》なのか…?)

(記憶が無いだけで、私は…殺人者なのか…?)

(なぁ…誰か、教えてくれないか!)


 そんな問いかけに答えが出ないまま、視界は段々とフェードアウトし、うっすらと見えていた荷台の景色も黒の中に飲み込まれていった。

夢が静かに、意識の中から薄れていく。…真実は謎のままに。









 闇しか見えなかった視界が突如として開けた。いつも見る、夢の扉が開く瞬間だ。
フルカラーの鮮明な世界にも見慣れてきたが…。
 ふと、何かが違う感じがした。そこに広がっていたのは静止画でも動画でもなく、一人称視点で見るブリタニア政庁の執務室だったからだ。
意思が通じる。右を見たいと思えば視界は右へと動き、左へ移動したいと思えば足音とともに景色が動く。
視点の高さも歩幅も、自分のそれと全く同じような感じで。
今までの夢でも臨場感は十分だったが、そんなレベルではない。そこに立っているのだと完全に錯覚を起こすような、リアルな世界だった。

(これも夢なのか…。

 …………夢?)

慌てて鏡を探す。
夢の中の自分といえば…。
 部屋の真ん中に置かれた大きな机の引き出しをおもむろに開けた。
書類の山、ファイルの束…整理された机だというのに、焦りが邪魔をして鏡の一枚すらすんなりと見つけられない。
あちこち開けて漁ること数分、ようやく小さな手鏡が一枚見つかった。
恐る恐るその銀色の板へと視線を写す。

(左目…緑…渦巻き……光………)

思い過ごしだった。手の中の鏡はごく普通の人間の瞳を鮮やかなオレンジ色に映し出していた。
束の間の安心。それでもまだこの【夢】は終わらない。
まだこれから何が起きるか分からない。
それは今までの夢の経験から、嫌というほど分かっていた。
自分でも気がつかないうちに目が緑色に渦巻いて光を放っているのだから。
 今度の夢は見ているだけでは終わらないだろうと薄々感じていた。
自分の意思で終わらせなければ永遠に終わらない、と。
 引き出しを片付け、迷うことなく机を離れると、真っ直ぐ向かいにある扉が自分の意思によってゆっくりと開いた。
はたしてこれは幸せなエピローグへの扉になるのだろうか。
政庁の長い廊下へと、その一歩が踏み出された。
ただ、目覚めの時を求めて。


 悪夢とはどんな夢を指すのだろう。
 痛い夢?
 怖い夢?
 それとも寂しい夢?

 今までにもいろんな悪夢を見て来た。
だけど。怖いより痛いより寂しいよりずっと辛い世界を見てしまった。
 そこにあるはずの廊下…見慣れたはずの景色は存在せず、変わりに見せつけられたのは真っ赤な鮮血に覆われた静寂。
床は血の海と化し、壁や天井にまで広がる夥(おびただ)しい量の赤い飛沫。
そして、深い傷を負って倒れ伏した部下や同僚たちの無残な姿。
銃で撃たれた跡、鋭利な刃で切断された跡…どれも即死だろう。その傷口からは、今もまだ赤い血が止まることなく流れ続けていた。

(何だ…これは…………一体…?)

 これを地獄絵図と言うのだろうか。
見るに耐えないその光景を前に、完全に固まってしまった。体中が凍り付いた。
恐怖からなのか、それともただ呆然としているだけなのか…とにかく何もできず、全く動けなかった。
(いや、夢…だよな、これは。そうだ、夢だ…悪い夢………)
必死に自分に言い聞かせて目の前の現実を遠ざける。
幸い、視界は意思に準じて動くようだが、それがかえって夢らしさを無くしてしまっていて。
 ただ見ているだけでは、この夢に終わりは来ない…最初に実感したそれは、今もまだ続いていた。
今自分の後ろにあるドアを開ければ、普段と変わらない平和な執務室があるじゃないか。
だけど、ここで戻ってしまったら永遠に夢の世界から出られないだろう…何の根拠もない、ただの憶測にすぎないこの理論。
それでも自分を信じて、夢の終わりが来ることを願って。小さな銃を構え、血の跡を辿るように長い廊下を真っ直ぐ奥に向かって歩き出した。

 相変わらず視界は赤い。
そして、これほどの惨事だというのに、政庁は恐ろしいほど静まり返っていた。
人の声も銃声も、警報の類いも、何一つ聞こえない静寂の世界に唯一生まれた音は、廊下を歩く自分の足音だけ。
部下の亡骸も、同僚の無残な体も、ぐっと涙を堪えて乗り越え歩く足音だけが、虚しく。
 赤い道標を辿ること数十メートル。やがて廊下の端までやってきた。
そこには動いていないエレベーターが一機。廊下は角を曲がってまだ続いているというのに、血溜まりはこの場所できっちりと終わっていた。
(この血の跡…乗れということか?)
ボタンをゆっくり押すと、いつもと変わりない早さでエレベーターが近付いてきた。
電気はついていて明るいものの、もはやこの状況はホラーゲームそのものじゃないか。
エレベーターのドアが開いたら何が出て来るのだ…?
犯人か? いや、また血の海? それとも…。
お化け屋敷など比較の対象にならない程の、この恐怖感。
おまけに、なかなかやってこないエレベーターが余計にそれを増幅させている。
 …そして。
ついに静寂の中にベルの音が響いた。階層のランプが付き、ドアが開く。
(もう…何でも来い…!)
覚悟を決めてぐっと目を閉じたものの…完全なる思い過ごしであった。
個室の中は血の海でもなければ、ゾンビが乗っていたりもしない。
後ろにある惨劇が嘘のような、いつもと変わりないエレベーター。
わずかな安堵感に一息つくと、再び銃を構えてゆっくりとその小さな個室に入り、確かな意思でドアを閉めた。

 さすがはブリタニア政庁、階層のボタンが縦にずらっと並んでいる。
その中にひとつ…
(ん…? 入口といい…誘っているのか?)

二階のボタンから鮮血が滴り落ちていた。まるで、赤い凄惨の続きを指し示すように。
もう迷う理由などない。今更何を迷えというのだ。
強くボタンを押す。触れた指先から伝わる血の感触。
エレベーターは何事もなかったかのように下へと向かって落ちて行った。
一分にも満たないわずかな時間を、果てしなく長い時のように感じながら。

 「2」の階層表示が光った。
電子音とともにスライドする二重のドア。
もう覚悟はできていた。鮮血を自分の指で、自分の意思で押したその時に。
それでも。
 
 二階のエレベーターホールは、上の階よりもずっと深くて濃い海が広がっていた。
もちろん、赤い海だ。
踏み出したタイルの上で小さく水が跳ねる。小さな音は静寂の中へ虚しく吸い込まれていく。
覚悟など簡単に揺らいで崩れ落ちてしまう。決して芯が弱いわけではない。状況が酷すぎるのだ。
血に? それとも犯人に?
言葉に表せない、巨大な【何か】に怯えながら、ゆっくりと目線を移していった。
赤い海の流出元へと…。


 信じたくはなかった。
覚悟だの何だのと言いながらも、心のどこかで所詮夢だと軽くあしらっていた自分を恨んだ。
この衝撃は、とても【夢】の一言で誤魔化したりはできなかったから。
夢だと分かっていても、とても受け入れがたいものを見てしまったから。

 ヴィレッタ、キューエル…良き部下で、同志だった二人の無残な姿を前にして、平常でいられるわけはないだろう。
上の階でも散々血を見せつけられ、その度に泣きそうになった。救ってやれなかったことを何度となく悔いた。
それでも、必死に目を背けて、夢から目覚める道を探してひた走った。
(その結果がこれなのか…?
 結局夢は終わらないまま、とうとうこの二人まで…!)

ブリタニアに忠誠を誓い、共に純血派を立ち上げた。
オレンジ事件をはじめ、いろいろあった。
衝突もした。殺されそうになったこともあった。いつもいがみ合っていただけのような気もする。
それでも、大切な仲間だったのだと今になって初めて思った。失って、思い出して、初めて気付いた真意。
(キューエル……伝えられないまま終わってしまった。もし夢の終わりが見つかったら…その時は必ず。)

 純血派がまだ小さな派閥でしかなかった頃、年齢も階級も何においても未熟だった自分に仕えてくれたのがヴィレッタだった。
上司とは名ばかりで、いつもいつも迷惑ばかりかけていた気がする。
面倒な仕事は全て任せて、窮地に陥るたびに助けられて…思えば彼女がいなかったら、自分はとっくに死んでいたかもしれないのに。
(地位も名誉も失い、一介のパイロットにまで墜ちて、それでもずっと側にいてくれたのはヴィレッタ一人だけだったな…
ありがとう。そして、すまない…。)

 いつか必ず純血派を立て直して、そんな二人に報いてやりたかったのに。
過去だ。純血派も、ヴィレッタも、キューエルも。どう足掻いても未来へと繋げない、【過去】。
 二人の亡骸を前に、先へと進む気力などすっかり無くしてしまっていた。
今までずっと我慢してきた涙が堰を切って溢れ出す。
跪き、ただ必死に首を横に振る。
夢だと分かっていても、否定せずにはいられない。受け入れられない。
生き残ったのは【自分】、たった一人だけ…静かなエレベーターホールの真ん中で、ひとつの慟哭がただ虚しく響き渡っていた。



 涙はいつ枯れるのだろう。悲しみはいつ終わるのだろう。
ずっとわからなかった。あの音を聞くまでは。
あまりにも突然で、唐突で、突発的で。静寂に慣れきっていた耳を劈いたのは一発の銃声だった。

 誰が撃った?

 誰が撃たれた?

 分からない。知りたい。皆を殺した犯人を。大切な命を奪った殺人者を。
悲しみはどこかに消え去っていた。そして、自分でも気がつかないうちに体が動き出していた。
怪我をした自分の血でもない、他者を殺めた返り血でもない…復讐の炎のような、そんな鮮血に染まったマントを翻して。
右手には一丁の銃。これで勝てるのかはわからないけど、たとえ勝てなくても、やれる所まで。

 真っ直ぐに伸びた長い廊下を全力で走り抜けた。
確かにに聞こえた一発の銃声を思い出して。
その途中でも、また銃声。
段々音が近くなっていく。
この先にある【何か】…答えはすぐ近くまで迫っていた。
 見えてきたのは階段と、一階のエントランスホール。このまま真っ直ぐ進むと二階のピロティに出る。
(音は一階から…もしや、このまま逃げるつもりか?)

急ぐ。
そして。

銃声。
階段下のエントランスホールで、今まさに一人の人間が現世から去ってしまった。

コーネリア・リ・ブリタニア。
エリア十一の総督。忠誠を誓いしブリタニアの皇族。
彼女の側にはすでに冷たくなった三人の体が虚しく横たわっていた。
騎士と、将軍と、妹と…皆に守られるように、鬼神と呼ばれた総督は虚しくも息を引き取った。

(そんな…コーネリア殿下!
 それにユーフェミア殿下に…ギルフォード卿、ダールトン将軍!)

ほんの数秒だったのに。階段がわずか数十段。
二階の柵越しに見たその光景は、押さえていた理性の限界点を超過してしまった。目線は向かい合って立つ男の方へと移っていく。
今まさにコーネリア殿下を撃ち殺した男の方へと。
銃を持つ右手に力が入った。
これで、終わりにする。
半ば感情に任せて引き金に手を掛けた、その瞬間だった。我に返ったのは。
 取り戻したのは正気でも冷静でもなく、驚愕。そして恐怖。
昴ぶっていたはずの感情がみるみるうちに凍り付いた。
男が振り向いた、その時に。
目が合った、その一瞬に。




 その男は青緑色の髪をしていた。
背が高くて、細身で、それでいてしっかりとした体格。
ブリタニアから支給されている青いパイロットスーツを身に纏い、左側にだけ取り付けられた機械のような装甲が、左右非対称で不自然な
シルエットを生み出している。
返り血で真っ赤に染まった掌には軍の拳銃が握られ、そこから発する赤いレーザーサイトの光は、まるで消えることない殺意を表しているかのようだった。
 これだけでも十分怖い。
こんな男と目が合って、銃を向けられて平気でいられるほうがおかしいだろう。
だが、本当の恐怖の意味は少し違っていた。
 その瞳…目が合った瞬間はっきりと見えた眼球は、鮮やかな緑色をしていた。
オレンジ色の右目と、渦を巻いて電光板のような光を放つ左目で自分を見つめたその男の顔。

 まぎれもなく自分自身だった。
いつも夢の中で見てきた、【記憶が無い時の自分】。
今までずっと否定し続けていた自分が目の前にいて、無慈悲な大量虐殺をして、そして自分に銃が向けられて…。

 もう頭の中はいろいろな考察でいっぱいだった。

《 最初から自分は二人いた? 》

《 マリアンヌ皇妃やクロヴィス皇子を殺したのはここにいる緑の目の自分で、自分じゃない? 》

《 でも枢木スザク強奪事件の時は? 》

《 いや、たとえ自分の分身だったとしても総督を殺した現行犯として…。 》

《 だけど…もしこの男を殺したら、一体化しているかのように自分が死ぬという可能性も…。 》

何が真実なのかわからなかった。
真実など誰も知らないのかもしれない。知らないほうがいいのかもしれない。
困惑。混乱。そして衝撃。
何もできないでいた。
銃を構えた【自分】を前にして、正しい判断を求めるほうが無理なのかもしれない。
 ふと気付いたその時には、一発の銃声が響き渡った後だった。
階段の下から。
無言のまま、表情ひとつ変えず、無慈悲な殺戮がまたひとつ…。

 銃弾はわずかに左に逸れた。
目の前にあった金属製の柵が、激しい音を立てて一階へと崩れ落ちただけだ。
 緑の目の自分はそれでも顔色ひとつ変えず、悔しがる様子も更なる殺意も見せないまま、ただそこに立ってこちらをじっと見つめていた。
立て続けに撃ってくるわけでも、弾を入れるわけでも、逃げるわけでもなく。
(脅しか? これは…。
 さっきの銃弾も、もしや敢えて外して…。)

 柵は落ちた。二人を隔てるものはもう何も無くなった。
邪魔をする人間もいない。
思い切って…思い切って。
再び銃を構え直した。右手が、添えられた左手が、そして引き金に程近い指が、小刻みに震え出す。
やはり恐怖か、それとも…。
 緊迫した静寂の中、ついにそれは発せられた。
言葉として。二階から。

『貴様は…誰だ。』

 静かに、穏やかな口調で発せられたその声が、広いホールに響き渡った。
端的、それでいて真髄に迫る問い掛けに、はたして答えは返ってくるのだろうか。
 ほんの少しの間がやけに長く感じた。
僅か数秒がこんなにも長いのか。
様々な仮説がどんどん頭をよぎっていく。
そして…。

『ジェレミアン。』

 自分と同じ声がまたホールに響き渡った。
端的な質問だったからだろうか、短い答えだ。だが、その答えの意味は一体何を表すのか…。
 男はそれ以上喋らなかった。一歩も動かない。構えた銃も表情も変わらない。
更なる問い掛けを試みた。

『ジェレミアン…? 何だそれは。 答えろ。貴様は…やっぱり私なのか?』
 銃を構える手に力が入る。もう迷わない。
どんな返答が返ってきても、銃弾という形で返ってきても。
怖くないといえば嘘つきだ。
たとえ謎の存在とはいえ、【自分】を殺すのだから。
それでも、やらなければ、皆の死に報いなければいけないから。

 沈黙。
互いの銃はいつ火花を噴いてもおかしくない状況だというのに、なぜか二人とも向かいあったまま動かなかった。
長い長い数分間。
その時を切り裂いたのはジェレミアンの口だった。


『我々ジェレミアンは人間の手によって造られた。』

『人間が、自分たちに都合のいい力を手に入れるため、摂理に背いて生き長らえるため、我々が実験体として使われた。』

『何体も何体も作り出された。そして、不要になったからといって皆殺され、処分された。』

『私はそんな人間に付き合うつもりは無い。だから研究所を破壊し、逃げ出した。』

『貴様はオリジナルだな、我々の。』

『我々は貴様のデータから生まれていると言ったほうが分かりやすいか…。』

『オリジナルのくせに人間の味方をするのか?』

『それとも、オリジナルというだけで常に人間の側にいて、手厚くもてなされてでもいたか?』

重い言葉だった。たしかに人間は皆自分勝手で、貪欲で、周りのことなど気にかけない。
もっとも、そんな人間ばかりではないことなど分かっているのだが、自分にも当てはまる部分があって。考えさせられる部分があって。
すぐに返答できなかった。否定も肯定も。

『…まあいい。オリジナルはオリジナルらしく、我々の頂点に相応しく振る舞ってもらおうか。もっと人間を怨むのだ。憎め。そして殺せ。』
『我々を生み出した、改造した、利用した…否、全ての人間に対する…』


『反逆だ…!』



(!)

 

ほぼ同時だった。
二つの銃声が鳴り響いたのは。
ひとつは一階のエントランスホールから。もうひとつは二階のピロティから。
互いの胸元を目掛けて。

そして――――――――――







夢は終わった。あまりにも唐突に。まるで、停電が起きていきなり消えたテレビのように。
フェードアウトも、ノイズも、消える前兆は何も無いまま視界は真っ暗になり、ついに音も匂いも感じなくなった。

(何故だ…いつもならこんな終わり方はしないというのに…。)

(結末…どうなったんだろうな、あの戦いは。)

(それに、マリアンヌ様やクロヴィス様を殺したのは、あのジェレミアンなるものだったのだろうか…。)

(それとも…。)


 続きが知りたかったのに。【自分】の行く末を見届けたかったのに。敵を討ちたかったのに。
次の夢は無かった。
銃声の後のお話は、誰も知らない永遠の闇の中に消えてしまった。
長い長い悪夢の終わりとともに。


…いや、本当の悪夢はこれから始まるのかもしれない。
静止画でも客観的でもない、やり直しも効かないリアルな時間の中で。

決して逃げられない【現実】として――――――。









 薄暗い研究所の一角で、青緑の髪の男が目を覚ました。
あまりにも唐突に。何の前兆もなく。

 自力で体を起こし、ゆっくりと両目を開けて【世界】を見る。
…そこにあったのは鮮血と死体の海じゃなくて、培養液とガラス片だけで。
銃で撃たれたことも大切な人達の死も、みんな夢の中のことで。
もう悪夢は終わったはずなのに…。

水に写ったその左目は、うっすらと緑色の光を放っていた。
それだけではない。
体を見れば、左側にだけ覆い被さった堅い金属。
色も感触も、もう人の肌をしていない。
顎や額にネジが挿さっていたり、背中から何本もコードが伸びていたり。
 代理執政官で、辺境伯で、純血派のトップで…剰(あまつさ)え【人間】という根底まで、何もかも無くしてしまった。
残ったのは、【実験体ジェレミア・ゴットバルト】としての、新しい未来だけだ。



 そんな自分の姿を目にする度、透明色の涙が右の頬を伝って培養液の中へと溶けていった。
泣くことさえ叶わない緑の義眼が、いつかオレンジ色に戻ればいいと、ただそれだけを願って――――――――――。







…fin











【あとがき】


 DS3周目でクロヴィスを殺すジェレミア、盤上のギアス劇場で世界の敵として描かれているジェレミアンを元ネタに、いろいろ足してこんな話になりました。

 でも一番伝えたかったのはラスト1ページだけです。むしろ最後のために悪夢を見ていただきました。
だって目が覚めたら機械になってたとか、すごく淋しい話じゃないですか。
レンチン攻撃で自滅したとはいえ、その時の負傷で体が不自由になったり隻眼になったりとかならまだアリだと思うんですよ。前線のパイロットだしそれなりの覚悟もできてるでしょ。
しかしジェレミアの場合、意志も何も無いままに『人間』という根底を無くしてしまいました。
C.C.の不老不死を研究するため実験体にされたんです。
少なくとも自力で歩いて来られたってことは命にかかわるほどの傷じゃないだろうし、あそこで素直に手当てしてくれてたら(まともな人に拾われてたら)人間のままでいられたかもしれません。

にもかかわらず、アニメでも雑誌でもメカジェレミアって完全なネタキャラとして扱われるかOPのような狂気キャラという扱いで。

あまりにも不憫だったのでちょっとリアル路線で考えてもらおうと思ったらこんな話ができあがってしまいました。
結果、すごーく淋しい話になってしまいましたがそれがメカジェレミアということで…。


 余裕があったら各シーンに挿絵を足していこうと思います。
とくに最後とか。23話のあのシーンの絵を足したいんですが絵力無いのでぜんぜん良い絵がかけません^_^;

ちなみにこの話、もともとがコピー本だったので、製本時に表が黒・裏が緑の目になるような表紙絵になってます。



最後まで読んでいただきありがとうございましたm(__)m